日本薫物線香工業会

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堺から古寺巡礼

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和歌山 紀三井寺

零陵香本舗 薫明堂 古寺巡礼

 和歌山市街から少し離れた郊外に、「紀三井寺」の名前で知られる古刹がある。正式名は紀三井山金剛宝寺護国院とされるが、恐らく紀三井寺の名前で広く親しまれているように思う。
 伝承によれば、770年に唐僧の為光により開山されたとされ、山の中腹にある境内の桜は、関西一の早咲き桜として広く親しまれている。また境内から眺める和歌浦湾の展望も紀三井寺の魅力として数えられる。関西に限らず全国的にも良く知られた名刹かと思うが、まずは隣接するかつての雑賀荘と共に、その名前が知られているように思う。
和歌山県内を南北に横断し、紀伊半島をちょうど一周する紀勢本線は、かなり海岸に沿って鉄道が続いている印象が強いが、その線路よりも西の海岸側に少し歩いたところに和歌浦がある。字の如く万葉集にも詠まれた風光明媚な和歌浦は、平安中期の熊野詣が盛んだった頃は、帰路に多くの貴族らが立ち寄る名所とされた。また江戸時代には、紀州東照宮が建てられるなど城下町の一角として賑わった場所でもあり、近畿内でも有数の景勝地に数えても良いかと思う。かつては観光地開発に力を入れた時期もあったが、現在は和歌山市街の高齢者向け福祉施設集積地といった方が適当かと思う。魅力的な景観を持つ場所だが、和歌山県内では高野山、熊野、南紀白浜など全国的に知られた観光名所に比べれば、静かで長閑な都市近郊の住宅地といった趣が強い。



 この和歌浦から更に海に面した先端が雑賀崎になる。紀伊半島と淡路島、四国が接近する海の要衝であり、かつて雑賀衆が海運と貿易の拠点としてこの地から歴史に登場したのも頷ける場所である。賀衆といえば、戦国時代織田信長の石山合戦があまりに有名だが、それ以前の時代になると、実は意外と名前が挙がらない。応仁の乱の後、畠山氏の要請を受けて畿内で転戦したとされるが、やはり種子島への鉄砲伝来以降、急速に台頭してきたように思う。一時は織田軍さえも凌駕するほどの軍事力と兵力を誇った雑賀衆は、地の利を活かして海運や貿易を携わっていたともされ、根来衆と共にいち早く鉄砲を最も有効に使う武装集団となった。信長と対立した雑賀衆は、本能寺の変の後、一旦は秀吉に合流するものの、最終的には1585年の秀吉の紀州征伐によって壊滅する。鉄砲伝来以降、雑賀衆が歴史上に登場して壊滅するまで50年にも満たない時期ではあったが、中世から近世へと変貌する時代の転換期にあって、日本の歴史の中でも異色な存在感を示すことになった。



 ところで、紀州征伐の際、根来寺など多くが焼き討ちにあったものの、紀三井寺は戦禍を免れたと伝えられている。山の麓の楼門から境内に続く石段と脇の石積を見ると、難攻不落な山城か要塞のようにも見えるので、被害がなかったのも事も頷ける。ただし、自然災害の方は、海に近い高台なだけに非常に厳しく、境内の建物は江戸時代に入ってから修復や復興されたものが大半を占める。
 江戸時代、紀州に入った徳川氏は、居城の和歌山城から近かったこともあって、歴代藩主が訪れ、紀州徳川家の繁栄を祈願したとも言われている。当然、江戸時代に入ってからは、既に雑賀衆は各地に離散し、静かな漁村となったと思うが、紀三井寺周辺は今日まで続く門前町として、共に維持され続けてきた。近隣住民に長く親しまれた寺院であることは、境内に一度入ればすぐに感じ取ることが出来る程、どこも手入れがよく行き届いていて清浄感がある。様々な歴史を積み上げられた場所のはずだが、まずは高台からの眺めの穏やかさが紀三井寺の一番の魅力かも知れない。




麓の紀三井寺の楼門 石段と石積 境内からの景観